自作キーボードを嗜む(?)ようになって、様々なキーボード、物理配列・論理配列というものを知るようになりました。その中で主流と見えるもの、廃れていったもの、少数派だけど熱心な愛好家に好まれているものといったように、違いというものも見えてくるようになりました。
そんな流れの中で気になったのは、「革新的なものが良いものなのか、古いものは悪いものなのか」ということ。これは迷いというよりも、悩みといった方が感情的には近いように思えます。
・革新的なものに対する古いものへのマイナスイメージ
実例を挙げると角が立つので曖昧になってしまいますが、物理配列で言えば他の配列とロウスタッガード。論理配列で言えば他の配列とQWERTY配列といったもの。それらは革新的なものと、そうでないもの=古いものという対比になるかと思います。ロウスタッガードでQWERTY配列なんて、今となっては古すぎる組み合わせ、という訳ですね。
古い、というのは言葉的にマイナスなイメージが付きまとうかと思います。古き良き、とは言いますが、「新しい方が良い」というのは実感的なものとしてあるかなと。洗濯板と洗濯機なんて、例えが極端ではありますが、ご理解いただけるかと(手洗いが必要なものに対しては別問題なので、そこは別のお話です)。スマートフォンも新しいのが出たら(よほど期待外れでもなければ)そちらの方が良いですよね? 古いものが悪いというよりは、新しいものが出たらそちらの方が良い、というのが正確なのかもしれません。
とはいえ、古いものよりも新しいものの方が良い、というのは古いものに対してのマイナスイメージがあるからと、(強引にではありますが)言えるかなと思います。
・流行に乗り遅れることに対する不安感
新しいものが流行する中で古いものを使うというのは、ある種の不安感を覚える方もいるでしょう。社会という枠組みの中で異端となることへの恐怖、という見方も出来るでしょうか? そういったものを新しいものへの対応をしていない/出来ない人間は不安を感じる要素として感覚的に捉えてしまうかもしれません。
流行に乗らないことが悪ではないし、「我が道を行く」というのはひとつの生き方として素晴らしいものだと思います。とはいえ、そういった生き方を自分が出来るかどうかは別問題で、周囲と違う自分という現実が不安で仕方ないと思うのは、何ら不思議なことではないかと思われます。
・新しいものは本当に良いものか
新しいものは良いもの、と言えないこともあります。ゲームやアプリの仕様が旧バージョンに戻される、または近しい仕様へと再変更されるようなケースです。「こちらの方が良いでしょう?」と新しいものに変更されるわけですが、実際にやってみると「前の方が良いんじゃないか?」となるような。そうすると一旦元に戻すか、再変更のために新たに作り直されるといったことになるかなと思います。良いものを目指して新しくするのは自然な行為ですが、良いものを目指しても実際にはそうでもなかった、ということはあり得るわけですね。
(私は詳しくはありませんが、新JIS配列とかは良かれと思って制定されたわけですが廃れています。とはいえ、これはそれまでのJIS配列が採用され続け、併存する中で積極的に選択されなかった故、という背景があるようですが)
新しいものを何かしらの事情から選択できないというケースもあるでしょう。真っ先に上がるのは導入コストですが、そういったものに予算・時間を割けない場合は古いものを選択し続けるといったことが起こるでしょう。そういった面で考えると、クオリティとは別の問題から「新しいものは良いもの」とは言えない事情といったものも出てくるでしょう。何事も一面だけで見てはいけませんね。
・革新的であるから偉いという訳ではない
これは少し卑屈またはいじわるな見方であると思いますが、革新的であるから偉いという訳ではないことを考えるべきかと。これは革新的なものを産み出す人・扱う人を揶揄するものではなく、そこに驕りがあっては駄目でしょうというお話です。ここで大事なことは、自信や自負は大事であることを踏まえた上で、それと驕りは別であることをしっかりと認識することです。
新しいものを産み出す、扱うということは大変なことです。そこに知的・体力的労力を割き、道を切り開いていくというのは誰にでも出来ることではないでしょう。それに敬意を表するのは当然かと。しかし、「素晴らしい結果を出して偉い」というのと「私は誰にも出来ないことをやってのけたのだ、敬え! これが出来なかった奴らは馬鹿だ!」というのは、明らかに違うものであるとお分かりいただけるかと思います。「これだけの成果を出した私は偉い!」と自負を持つことは大事ですし、そういった自負が次なるチャレンジの糧になるかもしれません。それは良いことです。ですが、「私には出来るのに他の奴らは出来ないのか」みたいなことになると……それはちょっとどうかな、と。
古いものを維持することが馬鹿にされることではない、というのは(おそらく)正常な思考であればご理解いただけるかなと思いますが、そこがご理解いただけていない方に馬鹿にされている方(コミュニティと置き換えても良いでしょう)を見かけてしまうと、悲しいものがあります。出された成果は素晴らしいのに、と。
・結局は感情的な問題
こういった結論になるのは歯痒いですが、結局の所こういった問題は感情的な問題です。感情と感情がぶつかり合うというのは、簡単に解決できるものではないということを我々の歴史は(残念ながら)証明しています。故に、「革新的ではない自分」に対する不安、卑下といったものを解決することは非常に難しいことであると私は考えています。
とはいえ、感情的な問題であるのですから「感情的な解決」が出来ないわけではありません。(何言ってんだ?)
結局の所、「余所は余所、ウチはウチ」ってやつです(あまり肯定的に取られない言い回しでもありますが)。素晴らしいものは素晴らしいものとして認め、それに対してネガティブな感情を覚えるときは「これはNot for meだな」と思えるかどうかです。これは革新的な人も、そうでない人もそう思えると皆が幸せになれる思考だと思います。自分と違う相手に対して「馬鹿だな」とか思うのではなく、「違うんだな」と思えるかどうか。これってひとつの趣味とかだけではなく、人として大事なことじゃないかなと思いますが。
古いキーボードが好きだって良い。古い論理配列を愛用していたって良い。それを馬鹿にされることも、することも許されて良いことではありません。逆もまた同じで、新しいものをすぐに取り入れる人に対して「すぐに流されて」なんて言ってはいけません。自分にとって重要でないものでも相手にとっては重要なのですから。自分の身になって考えれば、わかりますよね? わからないと、このお話全部意味なくて凹みますけど……。
・結局、何が言いたいか
ロウスタッガードが好きでも良いじゃないですか。QWERTYしか使えなくても良いじゃないですか。それをマイナスに捉える必要なんてないんです。新しいトライをすることは素晴らしいことだと思います。ですが、それが出来ないからといって卑下する必要なんてありませんし、馬鹿にされる必要もありません。良いじゃないですか、自分はこれが好き、これを使う。ただそれだけの話です。それを卑下するのは何か違うし、馬鹿にされるのもおかしな話です。
新しいことを広めたい、勧めたいというときに強い言葉になっていることを見聞きすることがあります。熱意の結果、なのだとは思いますが、ついつい目と耳を背けたくなる言葉が飛んでいたりするのをたまに見かけることもあります。そういうのは気持ちが良いものではないし、自分が言われている側に立つ人間だと、より気分は悪いですよね。それはちょっと、と。そういうのが少しでもなくなれば良いですが、なかなか難しそうだなと人という生き物をあまり信用していない私は思ってしまいます。なので、言われている側(そうなってしまった側)の人がいるなら、「あなたがその言葉を受けて卑屈になる必要は無いんだよ」と言ってあげたいな、と思います。何様かって話ですが、そう思うのです。
他人にとって良いものでも、私には違う……そういうことが起こりうるということを、何かを勧めたい、広めたいと思っている人は心の片隅に置いていただけたらなと思います。私も未熟者故、そういった過ちをしていないとは言い切れません。なので、こういったことを皆が気を付けて、心配りできる世の中であったら良いなと、自戒の意味を込めて記しておきます。
この記事はActy-31で書きました。
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